輝く空へ翔って 2
シャララン、と効果音まで付けて、淑やかさ全開、清潔感全開、完璧なメイドしぐさをキメて見せる。
……
……
……
「なにか答えなさいよ!」
「えっ、あ、あの、えっと」
赤面にバッテン目の顔で理不尽なツッコミを入れるあくあ。少年の頭はもちろんたくさんのはてなマークで埋められていた。
「マリンメイド……?バーチャル……?」
「バーチャルマリンメイド」
「は、はあ……」
……
……
……
「だからなにか答えなさいよ!」
ふたたび理不尽なツッコミに晒される少年。
あくあは状況を整理するために説明を開始する。
「えーっと、つまりここはバーチャルの世界で、仮想空間?ってやつなの。だから物理法則も、マップやキャラクター特性から影響を受けるし。データの引き継ぎや空間移動時の不具合なんかも起きるし」
「は、はあ。物理法則が、影響を受ける?」
「そうそう。こんなふうに」
そう言ってメイドの少女が人差し指を振り、腕を下ろしてまた上げるとそこには雑巾の入ったバケツが握られていた。
「わっ、どこから出したんですか?」
「あたしの場合はこうやって掃除道具を出したり食器を用意したりだけど、場所やキャラクターによって出来ることが違うの」
「はあ」
「仮想空間だから、キャラクターの人格や記憶もデータ化されて仮想領域に保存されるってわけ」
「ということは、僕は記憶のデータに何らかの不具合が発生して、ここに倒れていた?」
「多分ね」
あくあは少年の問いに簡潔に答える。
「修復さえできればデータは戻ると思うけど……あっ、いっけない!お掃除するの忘れてた!ねえ、君。名前なんて言うの」
名前を問われた少年は質問した少女の顔を見つめ返した。訊かれたって、空っぽの頭で自分の名前なんか答えられるわけがない。
それでも、少女の透き通るような瞳には、懐かしい記憶の残滓がどこか感じられるような気がした。
「……透」
「透。透くんって言うのね。透くん、あたし今からこの部屋を掃除しなきゃいけないんだ」
「掃除?」
「そう。たいへんなのよ学園に来客があってさあ。それでね。廊下を左に進むと事務室があるんだけど、そこへ行けばこれからの手続きとか、なんとかしてくれると思うから。失ったデータのことも、何かわかるかもしれない。だからまず事務室へ行くといいよ」
透と名乗った少年はぼんやりとドアの向こうを見た。昼下がりの廊下は、しんと静まり返って人の気配がない。誰もいない場所に、透は漠然とした恐怖を感じた。
「……」
廊下とあくあの顔を交互に見て、無言のうちに何かを訴える。一人で行くのが怖いのだ。
「……(じーっ)」
「えっ、なに、どしたん?」
「……いっしょに、きて、ほしいです」
「うぇえ、でも、あたし掃除の予定が」
こうなると困るのはあくあの方だ。透を事務室へ連れて行ってから掃除したのでは来客に間に合わないかもしれない。来賓をもてなせないのはメイドの沽券にかかわる。しかし少年はさらに消え入りそうな声で頼んでくる。
「お願い……します……」
少年を事務室に連れて行きたい。
時間内に掃除を終わらせたい。
その二つを同時にクリアするには。
(えーっ、困ったなあ。どうしよう。あっ!そうだ)
「ふぅー。これで終わりっと。時間は……うん、まだ大丈夫。サンキュー。助かったよ」
溌剌とした声が綺麗になった部屋へ響く。事務室と掃除。これらを天秤にかけてあくあが出した答えは、掃除を2人がかりですることだった。そうすれば、1人でするより作業が早く終わり、来客までの時間が稼げる。
指示されるまま掃除を手伝った透は、なんとなく狐につままれた気分で上機嫌なあくあを見ていた。
「あ、あの、事務室は……」
「それは心配しないで。もうすぐ天使が通りかかるから、一緒についてったらいいよ」
「はあ」
「えーっと、確かこの辺に……あったあった。お茶菓子余分に置いといたんだよね。一緒に食べよう」
すっかりティータイムモードのあくあは、透とテーブルで紅茶を飲みながら、悪戯っぽく「にひひ」と笑った。
透はその様子をじっと見て、率直な感想を述べる。
「あくあさん、なんだかすごく悪い顔してる」
あくあはしかし、急に真剣な調子で尋ね返した。
「透くん、本当に悪い顔って、どんなのか知ってる?」
「えっ」
天使がそこへ通りかかる。
「あっ、来たきた。おーい、ちょっとー」
廊下をするすると進む銀髪の少女に向かってあくあは呼びかけた。窓越しに気づいた少女は、扉を開けて室内へ入ってきた。
「はい、なんでしょうか?」
「かなたちゃん、ちょっとこの子を事務室まで連れてって欲しいんだけど」
「あれ、新顔さん?」
「そうそう。どうやらデータが破損しててさ。かくかくしかじかでー」
「ふうん」と言って銀髪の少女は透に顔を向ける。
「はじめまして。天音かなたです。種族は天使。今は天界学園からこの学校に留学に来ています。よろしくね」
「学校?」と透は鸚鵡返しに呟く。そう、彼が倒れていたこの場所は、バーチャル世界にある学校。私立ホロライブ学園なのだった。
輝く空へ翔って 1
まぶたを照らした眩しい光に目を覚ます。暖かい光。小鳥の囀り。ガラステーブル。
気が付くと茶色い床の上で寝転がっている。ひんやりしたタイルの感触。皮膚に残る痛み。それだけ。それが世界の全て。
「なんで……?」
反射的に呟く。
状況が理解できない。何か考えいたのだけど。頭の中になにかあったはずなのに、なにもない。綺麗さっぱり抜け落ちている。なんだろう。なんだっけ、なにがないんだっけ。思いつかない。
歩こうとしたとたん地面が消えたような感覚。目が覚めたばかりなのに、何も出来なくて、もどかしい。目覚めは良い。ぱっちり目は覚めてる。
焦燥感が胸を捉えて、落ち着かない。
天井のライトが眩しくて、顔の半分を手の平で押さえる。見ると正方形のタイルが敷き詰められた床は、ぴかぴかに磨かれていて木目が綺麗だ。
薄い茶色の板材に濃い茶色の木目。タイルとタイルの間の溝には少し埃が溜まってる。
窓の外では青空を小鳥たちが通り過ぎていく。部屋は広くて、窓も天井もとても高い。大きな窓の向こうからエンジン音が響き、飛行機雲が遥か遠くへ伸びていく。
ぼんやりとそんな景色を眺める。
…………
なにもない。
なにも思い出せない。
真っ白だ。
ここはどこだろう?
広い部屋をぐるりと見回す。キッチンとガラステーブル。清掃用具。机と椅子。それから大量の収納ケース。
どういう目的で作られた空間なのかよくわからない。
タイルの上に座り込んだまま、部屋の中を眺める。
......
無音。
窓の外の鳥たちも、飛行機も、どこかへ行ってしまった。
時計の分針が動く音だけ、時折響く。
............カチ............カチ
.......................................
5回、10回。
……………………………………………………
何度鳴ったかも、わからなくなった。
自分でもよくわからないうちに涙が零れ落ちる。空っぽの心を涙が埋めていく。
カチン。
乾いた音が鳴って、時計の短針が動いた。
大粒の涙が零れ、両方の手の平でそれを押さえる。
誰もいない部屋。なにも思い浮かばない頭。
まるで寝ている間に何かが、大切なものを全部隠してしまったみたいだった。
「寂しい」
彼がそう考えたとき、「掃除♪掃除♪」と口ずさむ声が入り口の向こうから響く。
男の子は驚いて、涙を浮かべたまま白い扉を見つめる。
声の主は部屋の中の事情など露知らず、カチャリと呑気な音を立てて鍵を回し、白い扉を開けて部屋へ入ってくる。
真っ白なフリルをふわりとはためかせて、
ガッシャーン。
車が衝突するような音が響く。
メイド服を着た少女は、少年と目が合った瞬間素っ頓狂な声を上げて、廊下へすっ飛んで行った。少年は呆気にとられる。
少し間を置き、扉の影からピンク色のツインテールが片側だけスッと現れ、可聴域ぎりぎりの声量で質問する。その顔はマスクとサングラスで完全防備されていた。
「誰……ですか……?」
「あ、あの、僕は、えっと、」
「どう……やって……この部屋に入ったのですか。……鍵、……かかってました……よね?」
「それは、その……」
ピンク髪の少女は男の子を見つめている。サングラス越しに。格好だけ見ると普通に不審者だが、少年は狼狽えることなく、一度唇を結んで、きっぱり言い切った。
「わかりません」
「……わからない?」
サングラスとマスクをつけた顔が傾く。
「なにをしていたのかも、自分が誰なのかも思い出せないんです」
ピンク髪の少女は相槌を打たずに暫く男の子の顔を見つめてから、もう一度訊いた。
「つまり自分で入ったわけでも誰かに連れてこられたわけでもなくて、気づいたらここにいたってこと?」
「そう、です」
「……は〜、びっくりした……」
答えを聞いて納得した少女は溜息を吐いてマスクとサングラスを外した。
「鍵はかかってたし、誰か来る予定もないし。まじで焦った」
「お、驚かせちゃってごめんなさい。あの、ここってどこですか」
「待って」
男の子の質問を少女は遮る。そういう話なら、そうなのだ。つまり彼にとって、この世界で最初に出会った相手が、彼女なわけだ。
「まずは自己紹介させて」
メイドらしく、リボンが付いた青白2色のワンピース。手足には白いシュシュを巻き、白いカチューシャとスカートの中央には錨のマーク。靴の色は服と同じ2色。ピンク色のツインテールは青いリボンで結ばれていて、ツートーンカラーのアクアマリンが内側から覗く。
片足を引いて頭を下げ、スカートの裾を広げて千両役者の美声を響かせる。
「はじめまして。この学校でバーチャルマリンメイドをしている、湊あくあです」